With Their Boots.

【後編】ユリアン・ナーゲルスマン インタビュー(JOE)

JOEに掲載されたユリアン・ナーゲルスマン監督インタビューの後編になります。前編では、彼に訪れた怪我による選手キャリアの終焉と最愛の父の死という悲劇、そこから立ち直る過程、そして指導者としての歩みが紹介されていました。後編では、当初の予定を前倒ししてホッフェンハイムの監督になった彼のその後について、ナーゲルスマン自身が語ってくれています。元記事はこちら。前編はこちら


2016年2月11日、当時28歳だったナーゲルスマンは責任ある立場に放り出された。ホッフェンハイムブンデスリーガの順位表の下から2番目に位置していた。クラブ内、そして選手間にも熱意があったものの、ドイツのメディアは好意的な反応を示さなかった。Rhein-Neckar-Zeitung紙は『PR目的のスタントに過ぎない』とレッテルを張り、Frankfurter Rundschau紙に至っては“Schnapsidee”―泥酔した状態で起こる狂った発想と書いた。

 

こういった言説が、ナーゲルスマンを悩ませることは全く無かった。「最初に頭に浮かんだのは、降格を回避するためにどれほどハードで長い道のりが待っているかということでした。そして、次に浮かんだのは、攻撃的なフットボールを勇敢に行わない限り残留することは出来ないだろうということです。」翌2016-17シーズンにドイツ最優秀監督を受賞した男は振り返る。

 

「とにかく試合に勝つこと。守っているだけではいけません。我々には勝ち点が必要だったんです。2回ほど良い連勝があり、強烈な揺り戻しもくらいましたが、何とかブンデスリーガに残留することが出来ました。降格圏とはたったの1ポイント差でしたから、本当に際どい結果でした。しかし、自分が監督になった頃には(残留圏内まで)10ポイント差の17位に位置していたことを忘れるべきではありません。ステフェンス監督が辞任する直前の試合では自分達より順位の低いダルムシュタットにも負けましたし、思い通りに事が進んだ訳ではありません。」

 

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[就任初戦となるブレーメン戦に臨んだナーゲルスマン監督。]

 

「今までの人生で自分は常にリスクを取る方を好んできました。そして、クラブから任されたタスクを受け入れることも確実にリスクでした。クラブにとっても、私のやり方を信頼して任せることはリスクだったでしょうね。」

 

これだけ危険な状態にあったホッフェンハイムの指揮を執ることだけでも十分に厄介な仕事だったのだが、ナーゲルスマンはこれと並行して指導者資格を修了するための戦いも行わねばならなかった。

 

「ライセンスを取るためにフォーメーション講座を修了しなくちゃいけませんでした」彼は笑いながら、A級資格の獲得に至るまでの狂った日々を振り返ってくれた。

 

「チームで残留争いを戦っている裏で、自分は最終試験を受けなくてはいけませんでした。とんでもないプレッシャーでした。特に精神的な部分で。日曜のドルトムント戦に備えつつ、月曜には試験が待っています。水曜の朝にはまた別の試験があって、その日の夜にはアウクスブルクとの試合がありました。」

 

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[残留争いと並行しながらも、見事に指導者ライセンスの最終講座をパスしたナーゲルスマン(写真右)。左は講座で同期だった現シャルケ監督のドメニコ・テデスコ。]

 

「そして土曜には同じく残留を争うシュツットガルトとの重要な一戦が待っているのです。自分の人生でも最もクレイジーな一週間でしたね。30歳より長く生きたいなら、あんな経験は絶対しない方がいいですよ!」

 

クラブの監督としての最初の時間を堪能する暇も無かった。「最初に電話をもらったのは日曜の夜で、翌日の午前10時には最初のミーティングがありました。準備する時間なんてそれほど無くて、多くの言葉を考えることも出来ませんでした。」

 

「とにかく勇気を持って攻撃的なフットボールをしようという自分のメッセージを伝えたいと思いましたね。試合に勝つことを考えること、恐怖の中で過ごさないこと、得失点差を気にせず、守りに入って負けないように戦ってほしくないことなどです。」

 

「もう一つ重要なメッセージとしては、コーチとしての自分と選手との関係性をどのように捉えるべきかという点です。選手達には残留争いのプレッシャーがあったとしても自分を失わないこと、自分と君たちとは同じ立場で唯一の違いは最終的な判断を私が下すという点だけだと伝えました。」

 

「年齢は関係ありません。良好な雰囲気を保つこと、お互いがリスペクトを持った関係性でいることが全てです。そして、我々全員は同じ目標を持つ必要があるのです。」

 

フレッシュなアイデアを呼び起こさせてくれた存在としてトゥヘルとホッフェンハイムのユースチームの元監督であるXaver Zembrodを敬愛するナーゲルスマンは勇敢にも自身が望んだ難局を乗り切り、14試合で7勝を挙げてドイツのトップリーグホッフェンハイムを留まらせて見せた。

 

そして、彼は真の魔法を起こす。少年時代にバイエルン州の大会で優勝したこともあるモトクロス愛好家は、限られた選手層にもかかわらず欧州の舞台へ進出した。今季のチャンピオンズリーグで決勝へと猛進することになるリヴァプールに予選プレイオフで退けられてしまい、フットボールクラブの頂点を決める大会への参加は叶わなかったが。

 

夏にはニクラス・ジューレとセバスティアン・ルディを、1月にはサンドロ・ヴァグナーをバイエルンに引き抜かれ、ヨーロッパリーグの過密日程に対応しながらも、今季のホッフェンハイムは大陸のエリートを決める舞台へ邁進している。

 

RBライプツィヒとのアウェイ戦を5-2で制したことにより、4位のレヴァークーゼンとは2ポイント差だ。2018-19シーズンからのルール改定により、4位以上になれば自動的にグループステージへの参戦が保障される。

(訳者注:最終節でドルトムントに勝ったことで、ホッフェンハイムは3位でフィニッシュ。無事に来季CLの出場権を確保した。)

 

ホッフェンハイムよりも多くの得点を挙げているのはドルトムントバイエルンだけであり、ナーゲルスマンがチームを率いた2シーズンでより多くの勝ち点を挙げているのもこの2チームだけである。「クラブにとってはとても大きな成果ですよ。我々は巨人ではありませんから、もっと高く評価されるべきです。」

 

「1日の終わりに、楽しいフットボールをして3ポイント取れたことをお祝いできるのも、全て選手とコーチングスタッフの勇気があってこそです。」

 

ナーゲルスマンはホッフェンハイムの進歩だけに執着するのではなく、将来のフットボール界を担う世代に出来るだけ多くの機会が与えられるべきだと唱える存在でもある。彼はコモンゴールに参加した最初のヘッドコーチだ。この運動は、フアン・マタとストリート・フットボール・ワールドによって設立され、フットボールという競技を通じて社会を良くしていこうという目的を持つ。

 

「自分が晴れやかな世界で生きていることは分かっています。」マンハイムシュツットガルトのフリーで使えるフットボール場を支援しているナーゲルスマンは語る。

 

「私はしっかり稼げる職を得ていますが、世界中どこでも、ドイツであっても、貧困に苦しみ助けを求める人がたくさんいることを知っています。コモンゴールに参加した理由は、フットボールには大いなる変革を起こす可能性があるからです。コーチであっても選手であっても、こういったチャリティと繋がることは、多くの気付きを起こし、他の人にも参加しようという気持ちを促せるのです。」

 

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[コモンゴールはフアン・マタが主導して始まったフットボールを通じた社会貢献活動を行う団体。ナーゲルスマンの他にはジョルジオ・キエッリーニやアレックス・モーガン香川真司などが参加している。]

 

フットボールを通じて子供達により良い未来を提供しようという目的を持った地元の組織もサポートしています。(子供達を)サポートすることは非常に大切なことです。だって将来を担うのは彼らなのですから。私が子供の頃は当たり前だった、小さいころからスポーツクラブに通うという文化は無くなりつつあります。我々にはそれを変えるだけのパワーがあり、それを活用しなければいけません。」

 

自身の将来についてナーゲルスマンはよく考えているようだ。バイエルンドルトムントアーセナルなどが彼の立身出世を追いかけ、動向を探っていることには驚かない。しかし、解除条項が来夏から発効する契約を2021年まで残す一児の父は、移籍することを急いでいない。

 

「私のキャリアにおける次のステップはスペシャルなものである必要があります。なぜなら、私はここでとても気分よく働けているからです。この点については強調しておきたいですね。これまでもたくさん言ってきましたが、プライベートな時間でも同じことを感じています。働くことを常に楽しんでいますよ。」ナーゲルスマンは語る。

 

コーチングスタッフの間では素晴らしい雰囲気があります。私達はみんなとても若いですが、みんな仕事に集中していますし互いにジョークを飛ばし合うこともありますね。チームには素晴らしいキャラクターがあって、選手と裏方のスタッフとの間にも固い絆、友情のようなものがあります。」

 

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「私はクラブに恩義を感じていますし、逆もしかりでしょう。だからこそ、とても良い感じで機能しているのだと思います。我々は何とかしてホッフェンハイムというクラブをドイツの地図に載せたい。それだけでなくヨーロッパで存在感を示したい。それが出来たらとてもナイスなことですよね。」

 

「全ての選手、コーチは自身の将来を考えるものです。私が次のステップに進むときも将来的にはあるでしょう。ただし、それが起きるのは適切なタイミングが来たときです。それが起きなかったとしたら、私は今までと変わらずハッピーな気分でここに出勤し、ピッチへ出て行ってるでしょうね。監督をやってみたいと思うクラブ、興味の持てるクラブが現れたときには、もしかしたら次のステップに進むかもしれません。でも、私は2010年からここホッフェンハイムのために働いてきました。とても幸せですよ。」

【前編】ユリアン・ナーゲルスマン インタビュー(JOE)

15/16シーズンの終盤戦、残留争いに苦しむホッフェンハイムの指揮官に就任して以来、奇跡の1部残留、トップ4フィニッシュ、CL出場権獲得など数々の驚きを世界に発信してきたユリアン・ナーゲルスマン監督。経歴、そして指導哲学が語られたインタビュー記事がJOEというメディアに掲載されていたので訳しました。元記事はこちら


 

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[当時28歳でホッフェンハイムの監督に就任したユリアン・ナーゲルスマン。今や欧州で最も注目されている監督の一人である。]

 

あのときの苦しみは今でもチクチクと、ユリアン・ナーゲルスマンの喉を込み上げてくる。20歳の彼が経験した激動の半年ほどの期間を振り返る言葉も途切れがちになる。

 

十字靭帯の損傷に苦しんだ彼は、想定より早く現役生活を終える決断を下すのに数週間を要した。そして、さらに追い打ちをかけるように、彼の父親であるエルウィン氏も短い闘病生活の末にこの世を去ってしまった。

 

「プロの選手になるという大きな夢が破れてしまったことで間違いなく傷つきましたね。」3歳の頃に初めてスパイクを履いて地元チームに加わった現在ホッフェンハイムを率いるナーゲルスマンはJOEの取材に答えた。「若い頃からやってきたことを無駄にした、全てが無意味になったと感じていました。とても酷い気分でしたね。最初に競技生活を辞めるという決断を下させられました。そして、もっとキツいことに、父親の死がやって来たんです。このことは私の家族を取り巻くものを大きく変えました。」

 

「とても仲が良くてハッピーな家族でした。兄と姉がいます。休みの日にはみんなでよく遊びに出かけていました。すごく良い感じで過ごしていたのに、突然、父が亡くなったんです。僕の人生にとってはとても大きな傷です。」

 

ナーゲルスマンは15歳のときにバイエルン州に転居し、1860ミュンヘンのユースチームにディフェンダーとして加わった。当時、アウクスブルクと契約をしていた彼はすぐにランツベルク・アム・レヒ郡にある実家に帰った。兄と姉は遠い土地で暮らしていたこともあり、彼は父が逝去した後のあれこれをしようと考えていた。

 

「こういうことをやるのは自分の務めだと思っていました。人が死んだ後で発生すること、例えば家を売りに出したり、保険について対処したり、あとは車とか、そういうものを片付けるつもりでいました。」

 

「前までだったら考えもしなかったこと全てをちゃんとやらないといけませんでした。そういうものがどういう意味を持つのかを理解するようになりましたね。兄と姉は実家から離れた場所に住んでいて仕事もしていましたから、大半のことは自分が対応しました。こういった経験のおかげで、折り合いを付けられるようになりましたね。」

 

「父はいつも幸せそうな人でしたし、私達がポジティブで居続けること、成功を目指すことを望む人でした。私はそういう状況の中で何とかして落ち着こうとしていましたが、特に何かが変わることはありませんでした。」

 

「後から振り返れば、こういった経験の全てが人として成長・成熟させてくれましたね。同世代の人にとってはノーマルとは言えないことをやっていたかもしれません。」

 

ナーゲルスマンがブンデスリーガ最年少監督になり、最も望まれる監督としてのマインドを持つ者になった背後にはこのような暗い日々がある。身を砕くような多くの悲劇は元センターバックに様々な視点を与え、必要不可欠な成熟さをもたらした。

 

「間違いなく人生でもっとも悲しい瞬間でした。」ナーゲルスマンはまだ56歳だった“geliebter papa”(最愛のパパ)との別れを振り返ってくれた。「もっと別の方法がよかったのは明らかですが、結局は責任を背負うことによって人として、後に指導者として成長することが出来ました。」

 

「人生においてフットボールよりも大切なものはたくさんあります。家族もそうです。このことが目を開かせてくれました。他の人には下せないであろう決断を下す際の助けになります。そして、指導者というのはコンスタントに決断と向き合う存在なのです。」

 

「この仕事をしていると、本当に多くのプレッシャーを経験しますし、感じます。でも、普段の暮らしにおいて、もっと重大なことはたくさんあります。私はフットボール、そしてコーチとしての仕事に多大な情熱を注いでいますが、これが私の全てではありません。確かに愛していますが、生き死にの話ではないのです。」

 

ホッフェンハイムの練習場であるディートマー・ホップ・スポーツパークにはイノヴェーションが詰まっているが、ナーゲルスマンの特徴と彼がもたらした影響の存在は明らかだ。ボールタッチやコントロールについて計測できるフットボーナウトから、メインピッチのハーフウェイライン付近に備え付けられ、4台のカメラからリアルタイムで分析映像が送られてくる巨大なビジョンなどがあり、この業界の最先端を走っている。

 

デティールにこだわる姿勢と底なしの戦術知識をないまぜにした結果、ナーゲルスマンはよく“ラップトップ監督”と揶揄される。数字やフォーメーションが全てだと思っていると誤解されるのだ。しかし、実際の彼は真反対の人間である。「指導者として成功したいのなら、戦術的なアレコレよりも選手の背後にいる人々に気を配り、共感することこそが重要です。私はそう信じています。」ナーゲルスマンは語る。

 

「もしも戦術的に限られた知識しか持っていないのなら、まだ優れた指導者になれる可能性はあります。反対に、戦術的に素晴らしい資質を備えていても、マン・マネジメントに問題を抱えているのなら、指導者として成功することは絶対に不可能です。私は選手達に明確な戦術的なプランを授けることを重視しています。実際の試合において彼らの助けになるようなものです。しかし、彼らとの間に結んだ関係性は私にとって非常に、非常に重要なものなんです。」

 

「この場所(練習場)に来るのを毎日楽しんでいます。ここで働くすべての人、中でも選手達と共に作り上げてきた雰囲気は、成功に向かって挑戦する上で基礎となるものです。仕事を楽しみ、快適さを感じながら働ければ、嫌々やっているときよりも多く学び、能率的になれます。」

 

「私はいつも笑顔でいることも、パーソナルなことを話題にするのも好きなコーチです。自分をネタにジョークを言うこともあります。そんなにシリアスな男じゃないんです。選手達が何か問題を抱えていて、ハッピーじゃない状態は好きではありません。選手が戦術的なプランをピッチ上に落とし込めるかどうかということよりも、そういうことを考える方が多いですね。」

 

ナーゲルスマンがメディア部門の長であるホルガー・クィームやスポーツダイレクターのアレクサンダー・ローゼンと話し合っているところを見れば、ホッフェンハイムに暖かい環境があることは容易に分かる。

 

ナーゲルスマンが持つ、戦術的な理論とパーソナルな触れ合いについての才覚は、現代フットボールにおいて失われてしまったものである。

 

選手になるという夢が絶たれた後、彼は「4から6週間くらい、フットボールに関わるもの全てが嫌になった」時期を過ごした。何か全く別のことをやりたいと思った彼は経営学を勉強し、BMWで働くことになるのだが、そこで新しい道と出会う。トーマス・トゥヘルだ。来季からパリ・サンジェルマンの監督を務める男がナーゲルスマンの進む道を変えてしまったのだ。

 

当時、アウクスブルクセカンドチームを指揮していた14歳年上の戦術家もまた、深刻な膝の怪我を負って選手生命を断たれていた。

 

「経済に興味があったので、経営学を勉強することにしたんです。」ナーゲルスマンが当時を振り返る。「中間試験をパスしていて、既にBMWから販売の仕事をもらっていました。学費を稼ぐためにアウクスブルクⅡのスカウトとしてトゥヘルの下で働いていたんですが、そのときは自分がコーチになりたいだなんて全く思っていませんでした。後からトゥヘルに指導者の道に挑戦した方がいいと言われ、1860ミュンヘンから17歳以下のチームのアシスタントコーチとしてのオファーを貰ったので、トライすることに決めました。2008年のことです。」

 

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[アウクスブルクの下部組織で働いていた際にナーゲルスマン(写真左)を指導者の道へ導いたトーマス・トゥヘル(右)。数年後にはブンデス1部の舞台で師弟対決が実現。]

 

「それから数週間後、自分の中で巨大な情熱と炎が燃え上がっていることを感じました。ピッチに戻れたことが本当に楽しかったんです。今度の場合は、今までとは違った側面からですけどね。ただ、(選手時代に)怪我のせいでベンチにいることが多かった私は、既にこういう視点から多くの試合を見てきました。でも、指導者になるという目的を持って分析していたことは全くありませんでした。」

 

1860ミュンヘンでこういったことを経験する機会を持ったとき、私はすぐに指導者という仕事は私のためにあると感じました。だから、私はスポーツ科学の勉強をすることを決断しました。メディカルな部門で何が行われるのかなどの知識を、バックグラウンドとして持つためです。」

 

「怪我の話をするときや回復プロセスを理解する際の助けになります。学び始めた別の理由として、指導者キャリアは保障の無いものですから、別の方法で稼ぐオプションを持つ必要がありました。最終的には、全てのことが当初のプランよりもかなり上手く行きましたけどね。」

 

ナーゲルスマンと共に働いていた人や彼を遠目に見ていた人達は、彼の将来をすぐに察知した。成長した彼はホッフェンハイムのU17チームでアシスタントコーチを務め、後に監督となった。フランク・クラマーが暫定監督を務めた2012-13シーズンには、裏方として彼を支える仕事もしていた。

 

その翌シーズンにナーゲルスマンは、U19チームの監督としてチームをブンデスリーガ王者に導いたのだが、そこでホッフェンハイムはマスタープランを打ち出した。それは、当時スポーツ科学の学士を取得したばかりのナーゲルスマンを2016-17シーズンからファーストチームの監督に据えるというものだった。

 

「最初に契約合意したのは2015年の11月のことでした。翌シーズンの始まる夏からチームを任せるというものでしたね。」同じ時期にバイエルン・ミュンヘンも彼をU23チームの監督として迎え入れようとして、ペップ・グアルディオラとの面会という魅力的な機会を用意したが、結果は失敗に終わった。「予定が変わったのは、(当時ホッフェンハイムを率いていた)フーブ・ステフェンスが心臓に問題を抱えてしまったときです。自分が当初の予定よりも早く監督になる必要が生じたのです。」

 

 

後編はこちら

 

戦術ブロガーからELベスト4の頭脳になった男:レネ・マリッチとは何者か。(ESPN)

皆さんはレネ・マリッチという男を知っていますか?数年前からspielverlagerungなどで骨太な分析記事を書いているオーストリア出身のいわゆる“戦術ブロガー”なのですが、今季は南野拓実も所属するオーストリアFCレッドブル・ザルツブルクのアシスタントコーチを務め、ヨーロッパリーグのベスト4進出に貢献しています。フットボリスタの記事などでもちょろっと名前が出るようになった(この記事とかこの記事とか)25歳の新世代コーチについての記事が、ESPNに公開されていましたので訳しました。元記事はこちら


オーストリアメディアでは「フットボールのおとぎ話」と評されているが、レネ・マリッチがニッチな戦術ブロガーからヨーロッパリーグのセミファイナリストであるFCザルツブルクのアシスタントコーチになるまでの出世街道はそういったものとは全く別物である。

 

現在25歳の彼が成功できたのは、フレンドリーな魔法使いとお付き合いしていたからでも、神聖な獣の金貨を持っていたからでもない。長年にわたる献身、探究、知的好奇心、そしてインターネットによってもたらされたネットワークとその可能性によるものだ。マリッチのオーソドックスとは言えない立身出世は、指導者業界の変容をも強調する。彼は、経験とステータスに基づく従来の価値観ではなく、もっとオープンでアイデアと実行力を評価する動きを牽引する存在だ。

 

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[レネ・マリッチFCレッドブル・ザルツブルクのアシスタントコーチを務めている25歳だ。]

 

他の多くの若手指導者と同じように、マリッチも怪我によって現役生活に終止符が打たれたときにフットボールについて深く考えるようになった。彼はドイツとの国境近く、上オーストリア州の小さな町にあるTSUハンデンベルクという7部リーグのチームでプレイしていた。心理学も学んでいた彼はU-17チームでボランティアとして働きながら、選手や戦術について長く、かなり突っ込んだ内容の難解な論文をabseits.atやSpielverlagerungといったネットメディアに公開した。Spielverlagerungに公開された専門用語が満載な記事や矢印などが用いられた図説などを、シンプルなことをわざと難しく表現してると貶すジャーナリストもいる一方で、マリッチらは(フットボールという競技に対する)本当の洞察を提示してくれると考える読者もいた。

 

その一人がトーマス・トゥヘルだ。当時マインツを率いていた彼は、マリッチにコンタクトを取った。マインツペップ・グアルディオラ率いるバイエルンと戦うときに見せるプレイ・パターンを詳らかに解説した記事をマリッチが書いた後のことだった。「その記事に気付いた彼は、メールを寄越してきて、ミーティングに招いてくれました。」とマリッチESPNに語った。マリッチと彼と同業のブロガーにいたく感銘を受けたトゥヘルは、彼らに対戦相手のスカウティングレポートを任せるほどだった。

 

一日のうち14時間をフットボールの勉強やコーチングに充てるほどのフットボール狂であるマリッチは、その後すぐにフリーのコンサルタントとしての仕事が舞い込むようになった。プレミアリーグのいくつかのクラブからは、グアルディオラとクロップが行うプレス戦術の解説を求められた。テッド・ナットソンのStatsBombチームと共に、ブレントフォードやFCミッティランが獲得に興味を持っている選手のスカウティングを行ったこともある。

 

コンサルタントとして働きながら、マリッチはTSUハンデンベルクでの監督業も続けていた。さらには指導技術についての本も上梓した。さらに大きな舞台で、彼のアイデアをピッチ上に持ち込む機会を得ることになる2016年の夏より前の話である。マリッチの戦術ブログを読んで興味を持った指導者はもう一人いる。マルコ・ローゼだ。FCザルツブルクU-18のコーチをしていた彼は、マリッチの分析にいたく感銘を受け、友情を結び、数時間以上もぶっ続けで戦術について議論をした。16/17シーズンの始め、ローゼ(現役時代はマインツでクロップと共にプレイしていた)は、マリッチをアシスタントコーチとして雇い入れた。

 

共に働く最初のシーズン、彼らが率いるザルツブルクU-18はバルセロナマンチェスターシティ、パリサンジェルマンなどの強豪を打ち破り、U-19チャンピオンズリーグを制した。いかなる年代の大会であろうと、これまでオーストリアのクラブはUEFAのトロフィーを掲げたことが無かった中での快挙である。

 

この歴史的な偉業を受けて、ローゼとマリッチザルツブルクのファーストチームに昇格する。国内リーグではまずまずのスタートを切った後、彼らは勢いに乗ってボルシア・ドルトムントラツィオといったチームを大方の予想を裏切って打ち破っていった。ヨーロッパリーグ準決勝で当たるマルセイユも下馬評では有利と見られているが、ザルツブルクが見せるフレキシブルなシステム、ボール保持時の素早いコンビネーション攻撃、プレッシングがうまく機能すれば個人能力での不足を十分に乗り越えられる。(※2ndレグの延長戦まで持ち込む粘りを見せたが、最後は誤審によるコーナーキックから失点し惜しくも決勝進出はならなかった)

 

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[レネ・マリッチ(左)とマルコ・ローゼ(右)]

 

マリッチの一日はタックスハム・トレーニンググラウンド(ザルツブルクの練習場)に早く来ることに始まり、練習メニューを考え、ローゼの隣で練習を指揮し、要点をまとめる。それから前の試合を分析するか、次なる対戦相手の分析映像などに取り掛かる。そして、コーチングスタッフとのミーティングや選手達との相談を行う。

 

では、弱冠25歳で経験豊かなプロ達を指導することは難しくないのだろうか?マリッチに言わせれば、全くそんなことはないのだそうだ。

 

「チームのおかげで、すごく働きやすいですよ。他のコーチから多大なサポートを受けていますし、寛大で従順な選手達ばかりです。」洞察的なプレイングパターンと実際のピッチ上で戦術を用いることには明らかな差異があるものの、マリッチが掲げる目標は理論と現実のギャップを出来るだけ小さくすることである。彼の書く10000語を超えるブログには複雑な文章が詰まっているが、それらは練習場で用いられる言語や単語などとは無関係である。マリッチが言うには、そういった記事は「観察したことを反映させたもの」として書かれているのだと言う。しかし、ザルツブルクスカッドへの働きかけは最適化された形で表されており、効果的にコミュニケーションを行っている。

 

「(戦術的な)インプットは全て、選手達が容易く理解できるような形で行われなければいけません。生きた言葉で、確信を持って行われる必要があるのです。こういった面で、マルコ・ローゼは最高の先生ですね。」マリッチは語る。

 

マリッチと話していると、彼や彼の同類たちを“戦術オタク”と見なすのは明らかに的外れだということが分かる。科学的なアプローチと高度なマン・マネージメントを融合させることによって成功しているブンデスリーガの若手指導者と同じように、マリッチもドレッシングルームのモチベーションを刺激するのに長けている。彼の場合は、ピッチ上でのパフォーマンス向上を助けてくれるというシンプルな気付きを得た選手達が、マリッチの指導についていく意思を持てていることに由来する。

 

これからの数日間でザルツブルクはガラスの天井に直面するかもしれない。しかし、2011年に南米の無名チームのパスマップを作るところから始まった男には、将来もっと大きな何かが起こるかもしれない。マルコ・ローゼはドルトムントのベンチに座るピーター・シュテーガーの現実的な後継者と見られている。もちろん、彼が「アイデアマン」と呼んで信頼するマリッチと共に、である。

ヨシュア・キミッヒのインタビュー(The Guardian)

23歳の若さでバイエルン・ミュンヘンとドイツ代表に欠かせない戦力となったヨシュア・キミッヒが、自身のキャリアで感じた苦しみやペップ・グアルディオラとの出会いについて語った記事を訳しました。16/17シーズンの終盤、ドルトムント戦終了直後にペップから受けた“公開説教”の真相についても語ってくれています。元記事はこちら


まったりとした日曜の朝8時前。場所はミュンヘンヨシュア・キミッヒは驚くほどに早く姿を見せた。インタビュー取材をするにあたって、欧州で最も優れた若手フットボーラーの一人が朝食を摂るより早い時間を指定してきたのは予想外だった。バイエルン・ミュンヘンとドイツ代表に所属するこのディフェンダーが流ちょうな英語を操ることにはほとんどショックを受けなかったのだが。弱冠23歳のキミッヒは、自身の輝かしい出世街道を精査することに対して驚くほど意欲的であった。

 

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ドイツ代表を率いるヨアキム・レーヴ監督は、キミッヒを「過去10年間のうちに出会った才能の中で最高の一人」と評した。バイエルンブンデスリーガ優勝5回、1974年のW杯優勝メンバーでもあるポール・ブライトナーは先週、キミッヒとフィリップ・ラームを比較するお決まりの話をした。「彼(キミッヒ)は戦術、試合状況を理解し、リズムを変えるべきときを知っている。第二のラームになるために必要なものは全て備えている」とブライトナーは語った。

 

戦術面でもピッチを離れた状態においてもキミッヒの成熟っぷりは、将来のバイエルンとドイツ代表のキャプテンになるだろうという確かな予感を抱かせる。キミッヒは今度のW杯や火曜日に控えたセヴィージャとのチャンピオンズリーグ準々決勝ではなく、昨シーズン、カルロ・アンチェロッティ監督のもとでキャリアが停滞してしまったときにどう感じていたかを説明してくれた。

 

ペップ・グアルディオラバイエルンを率いていたときにはセントラル・ディフェンダーを、大会ベストイレブンに輝くことになるEURO2016ではライト・バックをやることによって、キミッヒは類まれな多才さを見せつけた。アンチェロッティ政権下でも順調なスタートを切った彼は、守備的MFのポジションで起用されながらシーズン最初の14試合で7ゴールを挙げた。しかし、グアルディオラよりも保守的なアンチェロッティは、キミッヒを数か月に渡ってベンチに控えさせた。

 

「若手選手にとって、優れた指導者と出会うのと同じくらい大切なことは、たくさんプレイすることです。そうやって成長していくんですから。(試合に出られない期間は)自分にとってとてもハードでした。みんなが話しかけてくれたし、助けてくれましたが、自分一人で対処しなくてはいけません。家族とガールフレンドの存在は大きかったですね。こういう人達、特に彼女とフットボールとは関係ないことについて話すことが重要でした。でも、心の中には常にフットボールがありました。」

 

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[カルロ・アンチェロッティとキミッヒ]

 

「『自分に何が出来るのか?』『成長するにはどうすればいいのか?』と考えながら、練習時間を伸ばし、ハードに取り組んできました。そして家に帰ると『クソっ、何か変えなきゃ』って思ってしまうんです。こういう状態が3カ月以上続いて本当にキツかった。今は別の考え方をするようになりました。パワーが不足してるときは、それを受け入れるべきなんです。若いうちにこういう気付きを得られたのは良かったと思いますが、あんな苦しみはもう要りませんね。」

 

その後、アンチェロッティは選手からの信頼を失い、2017年の10月からはユップ・ハインケスバイエルンの監督となった。ハインケスが選手達と個別のミーティングを行った際に、キミッヒは最初の方に呼び出された選手のうちの一人だった。彼はバイエルンにとってキミッヒがどれほど重要かを強調した。この信頼感が2023年までの新契約にサインすることになる選手にとっては、とても大切なことだった。

 

キミッヒは当時を振り返って「ユップは僕が成長するために必要なことについて、いくつか話してくれました。成長させてあげたいという思いと信頼感を持っているコーチに師事することは、若手選手にとって本当に重要です。」と語った。

 

キミッヒはもっと昔に経験した難しい時期も振り返ってくれた。「14歳のときにシュツットガルトのアカデミーに入りました。大きな夢が叶った瞬間でしたが、孤独を感じていて、それはどんどん強くなってきました。18歳の僕はクラブのセカンドチームに上がりたかったのですが、クラブからは十分な強さが身についていないと言われてしまいました。」

 

キミッヒの決意は2013年にRBライプツィヒへのローン移籍志願によって露わになる。しかし、ライプツィヒでも最初のうちは苦労をしたという。ラルフ・ラングニックが監督をしていました。パーフェクトな移籍でしたね。でも、怪我をしてしまって…。ホテルに独りぼっちで周りに知っている人もいない状態でしたから本当に厳しかったです。でも大志を抱いてプレイするならタフにならなければいけません。僕は成長しました。これを乗り越えたことで前よりも強い人間になりました。」

 

キミッヒがライプツィヒで輝き始めると、グアルディオラはすぐに彼のポテンシャルに気付いた。2015年1月のことをキミッヒはこう振り返る。「契約しているエージェントが、僕を獲得したいクラブがあるって言ってきたんです。『どこ?』と尋ねたらFCバイエルン・ミュンヘンだと言うんです。僕は『冗談はよしてくれ』と言いました。だって、自分は2部リーグでプレイしていて、普通に考えてバイエルンはそういう選手を獲りませんから。信じられませんでしたね。バイエルンは世界中ほとんど全ての選手を獲得できますし、グアルディオラが自分を獲りたがっているなんて話を信じるのは難しいですよ。」

 

人の姿もまばらなカフェでキミッヒは笑みを浮かべながら初めてグアルディオラと会ったときのことを語った。「鼓動はとても速くて、特別な瞬間でした。僕は彼に『どうして自分なんですか?』と尋ねました。ペップは僕のプレイをどのように見ているか、どういう点を気に入っているかを話してくれました。彼は僕が技術的に成長していく過程を見てくれていました。そして、守備的MF以外にもプレイできるポジションがあると言われました。ペップは僕が19歳以下の欧州選手権に出ていたときにプレイを見ていたようで、僕の特長を把握したそうです。僕は思いました。『ワオ、この人は僕のこと、僕のプレイを完璧に分かってくれている』と。ペップは、僕にチャンスを与えたいとも言ってくれました。世界最高の選手達と競い合うことになる若手選手にとっては最高の言葉でした。」

 

では、グアルディオラはどのような方法でキミッヒの成長を助けたのだろうか。「色々なことがありました。ペップは僕に全く新しいスペースを見せてくれたんです。本当に大きく成長しました。彼が気にしているのは、ファーストタッチ、そしてボールを受ける前に何をすべきか分かっているか、です。選手達は味方がどこにいるかを分かっていなきゃいけません。だから、ペップは選手達にフィールド全体を把握してもらいたいんです。彼は何か気付いたときには、すぐに声を掛けます。素晴らしいフットボール観も備えていました。どんな相手に対してもマスタープランを持っていたんです。」

 

ペップと過ごした期間の終盤、2016年5月に行われたドルトムントとの試合(結果は0-0)でキミッヒは試合終了間際にセントラル・ディフェンスから中盤へポジションを変更させられた。終了を告げるホイッスルが鳴るや否や、グアルディオラはキミッヒに駆け寄っていった。会場では81000人、テレビ越しには何百万人が見ている前でグアルディオラは当時21歳の若者に激しい言葉を浴びせた。キミッヒを叱りつけているようにも見えたが、試合後にグアルディオラは「私は『君は世界最高のセンターバックのうちのひとりだ。全てを兼ね備えている』と言ったのです」と語った。

 

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[キミッヒに熱く語り掛けるグアルディオラ]

 

キミッヒがもっと良くなるよう熱心な指導をしていたことは明らかだ。では、あの苛烈な瞬間、彼が実際に話していたことは何だったのだろうか。「僕はセンターバックとしてプレイしていて、試合終了5分前にシャビ・アロンソとの交代でメディ・ベナティアが入ってきました。ベナティアは最終ラインに入り、僕はシャビがやっていた中盤のポジションに行くことになりました。でも、そのときの僕はセンターバックでプレイしてるときと同じ考え方を続けてしまったんです。すごく深い位置を取っていましたから、メディと僕が同じポジションを担当しているみたいで。ペップは試合中から僕にポジションを上げるように叫んでいたんですが、僕は何故そんなことを言われているのか分かってませんでした。だから、彼は僕がフィールドを引き上げる前に、しっかりと考えを話してくれたんです。最初はびっくりしましたよ。でも、ペップのことを知っている人なら慣れっこです。ペップという人はすぐに話をしてくれます。成長させるためです。彼はその場で伝えたい人間なんです。おかしな光景にも見えたかもしれないけど、僕にとっては素晴らしいことでした。ペップが僕のことをどれだけ見ているか、どれだけ気にかけているかを示してくれたのですから。」

 

グアルディオラマンチェスターシティにもたらした影響はさらに凄いものだ。「ペップがいかにスペシャルかを表していますよ。プレミアリーグには日常的にタイトルを目指すクラブがたくさんあります。しかし、彼はチームを大きく成長させ、他のライバル達とは別次元の存在にしてしまいました。チャンピオンズリーグでだって、アウェイのバーゼル戦を4-0でものにしています。信じられませんよ。」とキミッヒは言った。

 

グアルディオラとキミッヒが再会するチャンスはチャンピオンズリーグの準決勝か決勝に残されている。(後日、マンチェスターシティは準々決勝でリヴァプールに敗れてしまった。)しかし、現時点ではキミッヒは自身を成長させることに集中している。現在の彼はバイエルンでもドイツ代表でもライト・バックとしての地位を確立している。

 

「お気に入りのポジションは守備的MFですが、どちらのチームでも同じポジションを任せられる機会を得ることができました。ドイツ代表では先のEUROから右のディフェンダーを担当していますが、3バックを採用するときはセンターバックをやることもあります。こういう状況で、クラブに戻ってミッドフィルダーをやるのは簡単なことではありません。リズムが掴めないときには自信も失いがちですしね。でも、どんなポジションをやるにせよ、自分のスタイルをしっかり出そうとはします。守るだけじゃなく、チャンスも作りたいし得点も決めたいんです。適切なバランスを見出さないといけません。そして、若い選手にとっては誰かをコピーするようなことはせず、自分自身であり続けることが大切です。」

 

少なくとも、ラームとの比較は鳴りを潜めている。キミッヒがその成熟ぶりと多才さでもって、未来の大物としての存在感を自らの力で発揮しているからだ。「僕は常に僕自身でありたいと思っていました。ラームのクローンでもラーム2世でもありません。もちろんフィリップは素晴らしい選手です。良くない試合をしてしまったときでも、彼は他の選手よりも優れていました。彼のパフォーマンスには確かなものがあり、それに負けないようにしたいとは思います。でも、自分自身のプレイをすべきです。世の中の人は過剰な比較をしなくなりました。それが僕にとってはとても良いことです。」

 

ピッチ外でも成長しようとしているキミッヒは、現在スペイン語を勉強中なのだという。「フリーな時間があったときに、成長するために何かできることは無いかなって考えたんです。勉強は大変ですが、新しい言語を学ぶことは完璧な答えでした。今は少しお休みしていますが、勉強は一年以上続けています。アウトゥーロ・ビダルとかスペイン語を話すチームメイトとも少し話せます。でも、パーフェクトには程遠いですよ。フットボールでも何でもそうです。僕はもっと成長できます。」

求められるのは“適応力”と“諦めない心”―レアル・マドリードのアカデミー取材記(The Guardian)

ベンフィカスポルティングCPのアカデミー取材記を執筆したAlex Clapham氏が、レアル・マドリードのアカデミーについての記事をThe Guardianに寄稿していましたので訳しました。バルセロナが全てのカテゴリーで一貫した戦術デザインのもとに選手育成を行っていることはよく知られていますが、対するレアルは「いかなるシステムでもプレイできる完璧な選手」を作ろうとしています。元記事はこちら


マルコ・アセンシオが放った25ヤード級のシュートがマヌエル・ノイアーの守るゴールのボトムコーナーに突き刺さったとき、スコアは2-2だった。8人が折り重なって歓喜し、他の選手はドイツ人GKに向かって叫んでいる。そして、コントローラーが壊れてるんじゃないかなどと言うものもいた。キックオフの4時間ほど前、Cadete (レアル・マドリードU15チーム)Bの面々はリーグ戦を前にしてリラックスしようとしていた。サッカーゲームFIFAで遊ぶことではリラックス出来てなさそうだが。

 

競争はレアル・マドリードという組織全体から促されていると語るのは、アカデミーでコーチを務めるハビエル・モランだ。「この子たちはレアル・マドリードを代表しています。レアル・マドリードというヤバい場所を、です。この場所で成功するためには個性が必要です。情熱は教えられませんが、気力と信念は根付かせるができます。我々が掲げるエートスは‘nunca se rinde’ (絶対に諦めない)です。そして、その目標を達成するためには競争に勝つための何かを持っていなくてはいけません。」

 

TVを通して全国放送される予定の試合の前に休憩を取ろうと選手達が自室へ戻ってから、私は廊下の壁を彩るアルフレッド・ディ・ステファーノ、ジネディーヌ・ジダン、ラウールらの姿を見まわした。この面子の中でLa Fábrica(工場の意。下部組織を指す)でプレイしていたのは一人だけで、クラブは大物の補強に慎重になりそうな気配も無かった。レアル・マドリードはフロレンティーノ・ペレスが2000年に会長となって銀河系軍団構想を始めて以来、5回も移籍金の世界最高額を更新してきた。このアカデミーにいる少年達は、自分達がそういった路線と対立する存在であることを理解している。

 

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[レアル・マドリードのアカデミー卒業生であるラウール(左)とカシージャス(右)]

 

2010年のワールドカップで優勝したスペイン代表チーム23選手のうち、フアン・マタアルバロ・アルベロアイケル・カシージャスの3人だけがレアル・マドリードのアカデミーで育った選手だった。一方、バルセロナのアカデミーとして有名なラ・マシアの卒業生は9人もいた。現在、レアル・マドリードはそのバランスを修正しようとしている。

 

レアル・マドリードは、代表選手を育て上げるクラブという評判が欲しいのです。選手をスカウトする場合、技術面で大きな才能を持っており、様々な戦術的および戦略的システムに適応できる子を必要としています。我々とバルセロナなど他のクラブとで異なるのは、いかなるシステムでもプレイできる完璧な選手を作ろうとしているという点です」とは前述のモランの言である。

 

「ファーストチームを率いる監督の出入りなんて誰にも分りません。だからこそ、我々は選手それぞれに特定の型を作ってあげるというよりも、もっと個人にフォーカスしようとしています。適応とは人生において非常に重要なものです。我々は預かっている子供達を、瞬く間に起きる変化に対して自身で考えて反応できるように育てなければいけません。こういったことは、フットボールの世界では非常によく起こるからです。」ここにいる選手達は、ごく少数しかトップに上がれないことをよく理解している。だから、自身のプライドを捨てることになるのも、進むためには自身を変革しなくてはいけないことも分かっている。その進路がこのクラブだろうが、ヨーロッパの名門クラブだろうが、他のどこかだろうが。

 

フットボールクラブが建てた施設の中で史上最大」とも言われるレアル・マドリード・シティは2005年にオープンした。サンチャゴ・ベルナベウの40倍もの広さを誇り、ラ・リーガを戦うクラブ全てが一遍に遠征してきても収まるくらいのドレッシングルームが備わっている。他にもジム、教室、会議室、オフィス、治療やリハビリにも使えるプール、メディカルルーム、プレスエリアなどが複数ある。ピッチにはオランダから取り寄せた芝生が敷かれている。サンチャゴ・ベルナベウで使われているものと同じだ。

 

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[クラブの公式HPでも「サッカークラブが建設したスポーツ施設としては世界最大」と評されているCiudad Real Madrid(レアル・マドリード・シティ)]

 

クラブは世界中から40人ほどの子供達を集めて寮で生活させ、教育も施す。10歳かそこらの少年達は平均して3年間くらいをこのクラブで過ごすことになるが、初日に伝えられることがある。「君たちは、もう君たちの親御さんの子供ではないんだ。君たちはたった今からレアル・マドリードの選手だ」と。厳しいエリート・フットボールの世界から送られる無慈悲な歓迎である。

 

ピリオダイゼーション(必要なときに最大限のパフォーマンスを発揮するための適切なトレーニングストラテジーを構築すること)は、スペインのフットボール界においてとても重要視されている。シエスタは40分以内に収めること、休日の食事は決まった時間に摂ることなどのディティールが大切だと思われているのだ。前日の試合に出場した選手が取り組む早朝のリカバリー練習は習慣化されている。出場しなかった選手の“補填練習”も同様だ。そこから休日を挟み、1週間のうちの残りはフィジカル面や戦術面での練習で鍛えられることになる。試合前の最終セッションではフィニッシュやターンなどが優先して行われる。

 

戦術的な練習において、コーチ達は試合を想定したものを行う。仮定のシナリオを基に練習メニューを作るのだ。練習メニューは常に競争的で、一定の方向付けがなされており、今日のは低く構える相手の守備ブロックを流れるようなパスで打ち破るものだった。選手達のポジショニングが非常に大切になるため、コーチは完璧を求めた。

 

選手達に1-0でリードしている状態で残り時間は5分間と伝えられた。その中でプレッシャーを掛け、スクリーンを作り、遅らせ、カバーすることを求められる。そしてリードを死に物狂いで守らねばならない。アタッカー陣は、守備組織に素早く侵入するパスをじっくり待つようにと言われ、守備側の選手を引き出すために2対1の状況作るよう指導が入る。プレイの詳細が書かれている戦術ボードやシートはピッチ上に総動員されている。

 

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[Ciudad Real Madridの中には選手達がゲームで遊べる場所も用意されている。]

 

ほんの数時間前までプレイステーションで対戦し合っていたCadete Bの面々だが、今日の試合では同じチームに属しTrival Valderas Alcorcónというタフなチームと戦っていた。試合は1-0で負けている。選手の親や地元のファンからヘッドコーチであるペドロ・サンチェスの戦術選択への不満の声が漏れてくる。目的意識に欠けるパスが送られる度にスタンドから文句が湧き上がった。トップチームの方針に観客が不満を持っているときは、ベルナベウを埋めた8万人のファンが白いハンカチを掲げることがあるが、それのユース版と言った感じだ。

 

しかし、試合の終盤に同点ゴールが決まり、さらに追加タイムでもう2点を追加した。はちゃめちゃな展開から3-1の勝利をものにしたのだ。試合終了を告げるホイッスルが鳴ると、選手達はコーナーフラッグ付近で折り重なりながら勝利を祝った。親やサポーターは彼らを称えるスタンディングオベーションを贈る。この勝利によってチームは2位に1ポイント差の首位に立ったが、好印象だったのは試合結果とはそれほど関係が無い。選手達が ‘nunca se rinde’(絶対に諦めない)を体現してくれたことが何よりだった。これこそが、選手達がこのクラブで輝くために最低限必要な素質なのだ。