With Their Boots.

ベルギー代表の3分の1を育て上げたアンデルレヒトのアカデミー取材記(The Guardian)

先のワールドカップで大躍進の3位となったベルギー代表。そのメンバーの実に3分の1以上は、R.S.Cアンデルレヒトというクラブの下部組織で育ちました。多くのタイトル獲得歴を持つベルギー屈指の名門クラブであり、選手育成の面でも非常に高い評価を受けています。今回は、これまで数々の欧州クラブのアカデミーを訪問したAlex Clapham記者による取材記事を訳しました。元記事はこちら


ペーデ公園にある湖の周りを走り終えて建物に戻ってきた若い選手達は、みな握手とチークキスをしてくれた。U-21の選手達は壁に掲げられたロメロ・ルカクの肖像を通りすぎ、ジムへと向かう。

 

「我々が学校との協力を始めたのは、ロメロ(・ルカクの父親のおかげです。」こう話すのはジーン・キンダーマンアンデルレヒトのアカデミーでダイレクターを務める人物だ。「15歳の頃にロメロは有名になり始めて、彼に興味を示すクラブもたくさん出てきました。私は彼の父に『リール、ランス、オセールサンテティエンヌが息子の獲得を検討している。これら全てのクラブは学校も寮もフットボールに関係する教育も提供してくれるそうだ。全てがあるんだ。』と言われました。それから数か月後、我々はパープル・タレント・プロジェクトを開始しました。10年以上経った今では、パープル・タレント・プログラムと呼ばれています。もはやプロジェクトの段階ではないからです。」

 

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[ベルギー代表不動のストライカーであるロメロ・ルカクアンデルレヒトのアカデミー出身。]

 

「ロメロは毎朝の食事に1時間ほどかける子でした。それから勉強をしに行っていましたね。私達は子供達に過剰な情報を与えることを好みません。短い時間でインテンシティ高く活動する方が、同じことをダラダラと長い時間やるよりも良いのです。他の人と社会的な触れ合いを持つこと、様々な趣味や興味を持つことも重要です。」

 

ブリュッセルの郊外、シャレーが建ち並ぶ絵に描いたような地方の公園と教育機関の中にアンデルレヒトのトレーニングセンターは佇んでいる。この場所からお馴染みの名前が何人も選手として産声を上げてきた。その中にはロシアW杯に出場したベルギー代表23人のうちの8人も含まれている。前述のルカクヴァンサン・コンパニレアンデル・デンドンケルユーリ・ティーレマンドリエス・メルテンスアドナン・ヤヌザイミシー・バチュアイマルアン・フェライニは全てここで成長したのだ。スカッド全体の3分の1を占め、今大会8得点を挙げている(ベルギー代表のチーム総得点は16点)。

 

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[ロシアW杯に参戦したベルギー代表23人のうち、実に8人がアンデルレヒトのアカデミー出身者だ。]

 

キンダーマンは、地元の才能を見つけ出し代表選手へと育て上げるコツを自然に誇る。「U-13の年代で11人制のフットボールに移行する前の段階では、ブリュッセルに住む最高の選手を集めようとしています。U-6からU-12の年代では、地元に住む選手にだけ注目しています。特徴、年齢、文化、親に応じて、もしも本当にスペシャルな選手であれば遠く離れた場所の選手も見に行くかもしれません。しかし、その年代の少年を家族から引き離して生活させるのは非常に難しいものです。」

 

U-17の選手達はコーチのヌールディン・ムクリムの下で腕を磨いている。小さなロンド(鳥かご)は大きなポゼッション練習へと発展していく。ムクリムは10分か15分ごとに説明するために選手の輪の中に入る。U-15チームの練習場では、フィニッシュの練習が行われており、ウィングの選手がカットインしてインスイングのクロスを送っている。その中の一人のフルバックの出来に頭を悩ませてそうなコーチもいる。批判を受けたにもかかわらず、その選手は何の言い訳もしなかった。

 

キンダーマンは言う。「私達は全ての選手にそれぞれの方法で接しなくてはいけません。ここには本当に多くの地域、文化、言語、ナショナリティが集まっています。それぞれの子供達は、みんな異なる反応を見せます。個々のバックグラウンドへの適応が大切なのです。」

 

アンデルレヒトはストリートなんです。社会を映す鏡です。ブリュッセルはロンドンやパリのような大都市で、(アンデルレヒトが備える)多文化性は我々にとってアドバンテージです。ヴァンサン・コンパニについて言えば、彼はベルギー人の母親とアフリカ出身の父親との間に生まれました。派手な車も持たない慎ましい家庭で育ち、ブリュッセルの中心地で教育を受けていました。彼はトラム(路面電車)に乗ってここへ来て、練習後はバスに乗って帰宅していました。彼はストリートに影響を受けた人間と言えるでしょう。」

 

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[アンデルレヒトでプレイしていた頃のコンパニ。17歳でトップチームデビューを果たして以降、ハンブルガーSVへ移籍するまでに103試合に出場した。]

 

「ヴァンサン(・コンパニ)はとても賢い男です。水晶玉は持っていませんが、将来的に彼がここに帰ってきて重要なパートを担ってくれると確信しています。彼は天性のリーダーです。そのことを知るのに心理学の学位は必要ありませんね。会話したりジョークを言い合っていたりするときでさえ、彼は違っていました。本能的に人をグループとしてまとめ上げ、行く先々で大きな影響を与えるタイプですね。ピッチ上よりもその周辺でより多くのクオリティを持っていました。」

 

キンダーマンはコンパニのような威厳ある個性を持った選手を求めている。「毎年のようにクラブを変えるコーチは好きじゃありません。安定性こそが鍵です。我々のコーチ陣は心理学者や教育学者から頻繁に指導を受けています。ここでは元選手のコーチと学者コーチが共存しています。人にはそれぞれの信念があるのは確かですが、一種類の考え方しか持っていないのでは不十分です。生涯にわたって学び続ける人、ピープル・マネージャー、そして心理学者になる必要があります。指導者になることの神髄は、あなたが持つ考えを選手に落とし込み、理論に投資してもらうことにあります。」

 

「子供は変わりましたし、フットボールも変化しました。私はコーチ達にチャンピオンズリーグの試合を見せ、それを分析させています。モダンなフットボールに囲まれて過ごすことは重要ですよ。かつて70%のボール保持率を目指した時代がありましたが、それで何もしないのならボールを保持し続けることの何が良いというのでしょう。現在の我々は、70%のプログレッシブ(ゴール方向へ進んでいくための)で効果的なボール保持に取り組んでいます。全ての練習にフィニッシュについてのメニューも盛り込んでいます。そうしないと、ボールを保持できていても全ての試合に1-0で敗れることになります。クラブで掲げているトレーニング・フィロソフィーは“ボールを勝ち取る。ボールをキープ。前進。創造。フィニッシュ。勝利。”です。これはこの施設にいる全ての人に説いていることです。」

 

「教育的な要素のみを求めたらウイニング・スピリットを失う可能性があります。しかし、勝利のための指導だけを行うのも良くありません。バランスが必要です。これが、偉大なフットボーラーを作り上げるだけでなく、完璧な選手を育てるサイクルを我々が作り上げようとしてきた所以です。(選手として)確立していく時点でこれら全てのことを上手くやれれば、フットボールという競技を制することになるでしょう。」

 

「このアカデミーでは3-4-3システムから始めて、U-15のレベルに向かって4-3-3へ発展させていきます。ただ、柔軟性を持つ必要もあります。自軍の長所、短所、相手の状態、シーズンのどの時点か、試合の重要性などに応じてやっていきます。16歳か17歳になったら、アンデルレヒト・ウェイ(アンデルレヒトの戦い方)で勝利することが期待されます。もっと若い年代の選手は、3-4-3の中で楽な状態でプレイさせますが、ポジションは定期的に変えていきます。私はゴッドファーザーなどではありませんが、多様性を持った選手を育てることは、知性を持った賢い人間を育てることにつながると信じています。もし彼らが(我々の指導に)従い、よく聞き、ハードワークしてくれたら、彼らがどんな高みへ行けるかは楽しみになりますね」

 

練習場の向こうに太陽が沈む。U-21の選手達は一日の練習を終えた。彼らがジムを出て行くとき、強度向上とコンディショニングを目的とするエクササイズを続けている年下の選手を励ますようなチャントを歌っていた。彼らの背後にある壁には、『ハードワークは才能に勝る』と書かれてあった。

ゴールキーパーは過小評価されている?(The Guardian)

2018年7月、リヴァプールがローマからアリソンというゴールキーパーを獲得しました。報道によると、彼の移籍金はボーナス等を全て含めれば7500万ユーロ(約98億円)。2001年、ユヴェントスジャンルイジ・ブッフォンパルマから引き抜いた際に支払った5200万ユーロを上回り、GKとしては過去最高の移籍金です。しかし、フィールドプレイヤーが1億ユーロを超える額で移籍することが珍しくなくなった現代では、いささか大人しい額に思えます。GKに対して付けられた値札は果たして正当なものなのか?不当であるならば、それを証明する方法はあるのか?これらを題材にした記事がThe Guardianに掲載されていましたので訳しました。元記事はこちら

(※記事中の数字や表現等は、基本的に記事が公開された2018年5月段階のものとなります。)


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まずはジャンルイジ・ブッフォンアリーヴェデルチ(イタリア語で「また逢う日まで」「さようなら」)と伝えよう。引退を遠ざけるハンドブレーキは無いだろうが、日曜のヴェローナ戦は彼にとっての最後の試合となるかもしれない。1995年にデビューした頃、まだ10代だったアクションヒーローはピンクとブラックに彩られたパルマのユニフォームを着て、ジョージ・ウェアロベルト・バッジョなどのミランのオールスターズに臆することなく立ち向かった。それから約900試合を経験した彼は、年に1個の割合でトロフィーを掴んできたプーマのワングリップを外した。(その後、パリ・サンジェルマンブッフォンの獲得を発表。彼の現役生活はこれからも続いていく。)

 

ワールドカップとUEFAカップをそれぞれ1回、コッパ・イタリアを5回、イタリア・スーパー・カップを6回、ヨーロッパU-21選手権を1回、スクデットを何度も……そしてブッフォンはもう一つ栄誉を持っている。Transfermarktの調査による移籍金ランキングのトップ50に唯一GKとして名を連ねているのだ。彼が€5200万でユヴェントスへ移籍したのは17年も前のことであるにもかかわらず、である。

 

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[2001年、当時23歳のブッフォンパルマからユヴェントスへ移籍。その際に発生した移籍金5200万ユーロは、2018年7月にアリソンが破るまで長らくGKの最高額だった。]

 

2001年当時、その金額はクレイジーなものに感じられたが、今考えれば世紀のバーゲンの一つに思えてくる。しかし、貴婦人(ユヴェントスの愛称)に思い切って続こうとするクラブはほとんど現れなかった。さらに、€1500万(£1320万)以上の移籍金が掛かったGKも11人しかいない。セオ・ウォルコットやギド・カリージョに£2000万の値が付いていた世界において、その事実は奇妙なことに思える。しかし、ニック・ハリスが運営するSporting IntelligenceというWebサイトによれば、これは広範囲に適用可能なトレンドを表しているのだという。彼の集計によると、ゴールキーパーディフェンダーミッドフィルダー、ストライカーのどれよりも安い給料で雇われており、フィールドプレーヤーと比較して評価額も低くなっている。

 

例えば、2005-06シーズンのプレミアリーグにおいて、キーパーは平均して£53万3000の給料を受け取っていたが、これは全選手の平均給与£67万6000の79%に満たない数字である。2016-17シーズンではキーパーの平均給与は£168万(約2億4000万円)だが、基本給のリーグ平均£240万(約3億5000万円)と比較して69%ほどの数字に過ぎない。

 

キーパー達への評価が極度に過小に行われていることは明らかである。そこで問題になるのは、その過小評価を証明できるのか?ということだ。

 

ブレントフォードイングランド)とFCミッティラン(デンマーク)で選手リクルートにも携わる傍ら、フットボールコンサルティングサイトStats Bombの運営もしているテッド・ナットソンは可能だと信じている。彼は先週、サウスバンク大学で行われた講演会で他のポジションの選手よりもキーパーを評価するのはハードであると語った。彼らは相手の攻撃を跳ね除け、味方に対して正確にボールを配り、攻撃の始点となり、クリーンシート(無失点)で終えなければならない。しかし、既存のデータはこれらの能力の強み・弱みを適正に評価するものではない。

 

例えば、セーブ率は全てのシュートがキーパーの喉元に飛んで来れば意味を失う。よりしっかりと失点数を予測する指標であるゴール期待値(xG*1と比較することでキーパーのパフォーマンスを測ることもあるが、(シュートした選手への)守備側のプレッシャーやシュートのパワーは考慮されていない。

 

ナットソンは、スウォンジーの元監督だったボブ・ブラッドリーにミッティランの監督職についてのインタビューを行ったときのことを振り返った。ブラッドリーはデータを活用することについては快諾しながらも、xGが持つ明確な穴を指摘した。「二人の守備者に張り付かれている状態の選手が、(ゴールから)6ヤードの距離からヘディングシュートを撃った場合、それをグッドチャンスとは言えないよね。事実として、得点することが難しいことを分かってる」と彼は言った。

 

ナットソンは彼が的を射ていると認めた。「しかし、私は世界中30ものリーグを見回して、まだ評価額が高くなっていない選手を探さなくてはいけません。2万人の選手を複数シーズンに渡って見渡すことは無理です。」ナットソンはそう返答した。

 

しかし、現在のナットソンは、チャンスとゴールキーパーを評価するのに、より信頼できる方法があると信じている。重要な突破口になったのは、プレミアリーグで撃たれた全てのシュートの速度が計測可能になったことだ。(驚くべきことではないが、長距離からのシュートではリヤド・マフレズとハリー・ケインが上位である。)そして、データによってシュートが撃たれた時点での選手の配置、ゴールキーパーが動いているのか、止まっているのか、グラウンドに倒れているのかも分かるようになった。

 

これにより、スカウトやアナリストはたくさんの情報を得られるようになった。キーパーのリアクションタイムを評価することもできるため、他のリーグでプレイするキーパーと比較してポジショニングがどれほど優れているのかが分かる。さらに、究極的にはセーブ自体がどれほど良いのかも分かるのだ。ナットソン曰く、このことはフットボールの世界を変えてしまう可能性があるという。

 

このデータを用いて、スタッツボムで彼と共に活動するデリック・ヤムは、2017-18シーズンのプレミアリーグのキーパーをランク付けした。予想通りだが、ダビド・デ・ヘアが首位になった。彼が今季喫した失点数は、平均的なキーパーが喫すると予想される期待値より8点も少なかった。アーセナルペトル・チェフが最下位で、彼は期待値より6点も多く失点した。(リヴァプールシモン・ミニョレも似たような数字だった。)

 

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[マンチェスター・ユナイテッドの正GKを務め、プレミアリーグ屈指の評価を受けるダビド・デ・ヘア。大きな身体と冷静な判断力、類まれな反応速度を武器に数多くのビッグセーブを繰り出してきた。]

 

デ・ヘアがチェフより優れていることは誰しもが理解している。ただ、このような数字を得ることによって、我々は各選手の価値をより良く測ることが出来る。ナットソンはこう語る。「平均的な失点期待値を8点下回るというのは凄いことです。毎シーズン平均して10点あげるストライカーは£2000万(約30億円)の価値があります。年齢やその他の要素によるところもありますが、そこからさらに8得点上積みできるなら、そのストライカーの価値は3倍になりますよ。

 

そして、もしデ・ヘアの並外れたパフォーマンスが複数シーズンに渡って繰り返されるものならば―数字はそれが可能だと示している―彼、あるいは他のトップレベルの若手キーパーは少なくとも£5000万(約73億円)や£6000万(約88億円)の値が付くべきだ。

 

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[現地7月19日にローマからリヴァプールへの移籍が発表されたアリソン。移籍金は満額7500万ユーロ(約98億円)とも報道されており、ブッフォンが長らく保持していたGKの移籍金記録を塗り替えた。]

 

選手寿命はもう一つの要素として有利に働く。30代に向かう中で、選手達のフィジカルが低下していくことは皆知っている。しかし、ゴールキーパーの力の衰えはゆっくりとしているし、リアクションが衰えたとしても試合を良く読むことによって補っている。

 

数年前のユヴェントスに、ブッフォンを獲得した後のことを見通せる人はいなかったはずだ。彼は日曜に、愛してやまないクルバ・スッド・シレアの前で自身7度目のスクデット獲得を誇る。

*1:主にシュートした地点、ラストパスの性質、体のどこでシュートしたかなどを参考に算出された数値。

数字から探るイニエスタとヴィッセル神戸の可能性

2018年5月末に発表されたアンドレス・イニエスタ選手のヴィッセル神戸加入は、世界的にも大きなニュースになりました。それに関連して、あらゆるスポーツのスタッツを計測・収集しているOptaという企業が運営するOptaPro Blogで、イニエスタヴィッセル神戸の将来をスタッツから探るという主旨の記事が公開されましたので訳しました。元記事はこちら


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先ごろ、アンドレス・イニエスタバルセロナから日本のJ1リーグに所属するヴィッセル神戸へ移籍することが確定した。OptaProでは、このスペイン人MFが新しいチームから期待できること、ヴィッセル神戸が想像性あふれるMFの能力を最大限引き出すために適合する必要のある部分を簡単なスナップショットと共に紹介する。

 

チームのパスに関するスタイルはボールを保持している状態での哲学を表し、説明するのに使える。バルセロナヴィッセル神戸のパススタイルを並べて比較することで、イニエスタが新しい所属先から期待できることを洞察していく。

 

もちろん、バルセロナヴィッセル神戸よりも優れたクオリティを備えていること、全く異なるリーグを戦っている事実が直接の比較に影響を与えることは明らかだ。しかし、この比較によってヴィッセル神戸が小柄な天才を活躍させるためにどれくらい適応させるべきかをざっくりと知ることはできる。イニエスタ自身が新しいチームでどう生きていくかも見えてくるだろう。

 

下図は、バルセロナヴィッセル両チームがどのようにボールを扱うかを示している。各リーグの他チームとの比較で、どのようなスタイルを備えているかが見えてくる。

 

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[バルセロナのボール保持に関する指標。各スタッツで軒並み最上位になっていることが目立つ。一方で、前方へのパス比率(%PassFwd)やクロス数(Crosses)はリーグでも最少クラスだ。]

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[ヴィッセル神戸のボール保持に関する指標。こちらも各種スタッツで平均を上回る数字を記録しており、その意味ではバルセロナの志向に近いことが伺える。ただし、クロス数はリーグでも多い方であり、そこが相違点として目立つ。]

 

ラ・リーガにおいて、バルセロナはボールポゼッションに関連する指標で1位になっている。タッチ数、ペナルティエリア内でのタッチ数、パス企図数、パス成功数、自陣でのパス数、敵陣でのパス数などだ。真逆の分野に目を移すと、おそらく驚くようなことではないが、クロスを上げた回数は最少、前方向へ出されたパスの割合も19番目だ(リーグ平均36.6%に対して、バルセロナは30.5%)。

 

では、現在J1リーグ6位につける(15節終了時点)ヴィッセル神戸と比べてみよう。パス企図数とパス成功数でともに4位であることから、彼らがポゼッションを軸にしたスタイルからそう遠くないことが分かる。イニエスタとの相性も良さそうだ。

 

ヴィッセル神戸が我慢強く、ポゼッション中心のアプローチをとっていることは、前方向へのパス割合が低いことからも見えてくる(32.7%は18チームの中で最も低い数字だ)。ヴィッセル神戸の1試合平均パス企図数は532回で、バルセロナの638回には遠く及ばないものの、ラ・リーガの中でも3位に入る数字だ。やはり、プレイスタイルを比較する上ではフェアな数字と言えるだろう。

 

この分析をチーム単位からリーグ単位へと拡大する。下図は両リーグの1試合平均の数字を抜き出したものだ。

 

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[上段から合計パス数、ロングパス割合、クロス数。]

 

一見すると、両リーグの間にスタイルの差異はなさそうだが、イニエスタが1試合あたりのクロス企図数がリーグ最少(10.8回)のチームから、1試合あたり23回のクロスを上げるチームへ移ることは強調しておきたい。

 

もちろん、イニエスタがクロスの終着点となるべくボックス内へ遅れ気味に突入するようなMFになる可能性は低いだろうが、ヴィッセル神戸のアプローチの中で、イニエスタはボールが中央の狭いスペースではなくサイドにあると感じる頻度が高まるだろう。

 

バルセロナで過ごした輝かしいキャリアにおいてイニエスタは、チームのスタイルを花開かせられるエリート級のタレントに囲まれてきた。イニエスタのパフォーマンスが全く新しい環境、異なるチームメイトに囲まれた中で変化するのかはまだ分からない。しかし、フィールド上から読み取れるサインは、試合に勝利するための全てを勝ち取ってきたMFにとっては明るいものである。

【後編】ユリアン・ナーゲルスマン インタビュー(JOE)

JOEに掲載されたユリアン・ナーゲルスマン監督インタビューの後編になります。前編では、彼に訪れた怪我による選手キャリアの終焉と最愛の父の死という悲劇、そこから立ち直る過程、そして指導者としての歩みが紹介されていました。後編では、当初の予定を前倒ししてホッフェンハイムの監督になった彼のその後について、ナーゲルスマン自身が語ってくれています。元記事はこちら。前編はこちら


2016年2月11日、当時28歳だったナーゲルスマンは責任ある立場に放り出された。ホッフェンハイムブンデスリーガの順位表の下から2番目に位置していた。クラブ内、そして選手間にも熱意があったものの、ドイツのメディアは好意的な反応を示さなかった。Rhein-Neckar-Zeitung紙は『PR目的のスタントに過ぎない』とレッテルを張り、Frankfurter Rundschau紙に至っては“Schnapsidee”―泥酔した状態で起こる狂った発想と書いた。

 

こういった言説が、ナーゲルスマンを悩ませることは全く無かった。「最初に頭に浮かんだのは、降格を回避するためにどれほどハードで長い道のりが待っているかということでした。そして、次に浮かんだのは、攻撃的なフットボールを勇敢に行わない限り残留することは出来ないだろうということです。」翌2016-17シーズンにドイツ最優秀監督を受賞した男は振り返る。

 

「とにかく試合に勝つこと。守っているだけではいけません。我々には勝ち点が必要だったんです。2回ほど良い連勝があり、強烈な揺り戻しもくらいましたが、何とかブンデスリーガに残留することが出来ました。降格圏とはたったの1ポイント差でしたから、本当に際どい結果でした。しかし、自分が監督になった頃には(残留圏内まで)10ポイント差の17位に位置していたことを忘れるべきではありません。ステフェンス監督が辞任する直前の試合では自分達より順位の低いダルムシュタットにも負けましたし、思い通りに事が進んだ訳ではありません。」

 

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[就任初戦となるブレーメン戦に臨んだナーゲルスマン監督。]

 

「今までの人生で自分は常にリスクを取る方を好んできました。そして、クラブから任されたタスクを受け入れることも確実にリスクでした。クラブにとっても、私のやり方を信頼して任せることはリスクだったでしょうね。」

 

これだけ危険な状態にあったホッフェンハイムの指揮を執ることだけでも十分に厄介な仕事だったのだが、ナーゲルスマンはこれと並行して指導者資格を修了するための戦いも行わねばならなかった。

 

「ライセンスを取るためにフォーメーション講座を修了しなくちゃいけませんでした」彼は笑いながら、A級資格の獲得に至るまでの狂った日々を振り返ってくれた。

 

「チームで残留争いを戦っている裏で、自分は最終試験を受けなくてはいけませんでした。とんでもないプレッシャーでした。特に精神的な部分で。日曜のドルトムント戦に備えつつ、月曜には試験が待っています。水曜の朝にはまた別の試験があって、その日の夜にはアウクスブルクとの試合がありました。」

 

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[残留争いと並行しながらも、見事に指導者ライセンスの最終講座をパスしたナーゲルスマン(写真右)。左は講座で同期だった現シャルケ監督のドメニコ・テデスコ。]

 

「そして土曜には同じく残留を争うシュツットガルトとの重要な一戦が待っているのです。自分の人生でも最もクレイジーな一週間でしたね。30歳より長く生きたいなら、あんな経験は絶対しない方がいいですよ!」

 

クラブの監督としての最初の時間を堪能する暇も無かった。「最初に電話をもらったのは日曜の夜で、翌日の午前10時には最初のミーティングがありました。準備する時間なんてそれほど無くて、多くの言葉を考えることも出来ませんでした。」

 

「とにかく勇気を持って攻撃的なフットボールをしようという自分のメッセージを伝えたいと思いましたね。試合に勝つことを考えること、恐怖の中で過ごさないこと、得失点差を気にせず、守りに入って負けないように戦ってほしくないことなどです。」

 

「もう一つ重要なメッセージとしては、コーチとしての自分と選手との関係性をどのように捉えるべきかという点です。選手達には残留争いのプレッシャーがあったとしても自分を失わないこと、自分と君たちとは同じ立場で唯一の違いは最終的な判断を私が下すという点だけだと伝えました。」

 

「年齢は関係ありません。良好な雰囲気を保つこと、お互いがリスペクトを持った関係性でいることが全てです。そして、我々全員は同じ目標を持つ必要があるのです。」

 

フレッシュなアイデアを呼び起こさせてくれた存在としてトゥヘルとホッフェンハイムのユースチームの元監督であるXaver Zembrodを敬愛するナーゲルスマンは勇敢にも自身が望んだ難局を乗り切り、14試合で7勝を挙げてドイツのトップリーグホッフェンハイムを留まらせて見せた。

 

そして、彼は真の魔法を起こす。少年時代にバイエルン州の大会で優勝したこともあるモトクロス愛好家は、限られた選手層にもかかわらず欧州の舞台へ進出した。今季のチャンピオンズリーグで決勝へと猛進することになるリヴァプールに予選プレイオフで退けられてしまい、フットボールクラブの頂点を決める大会への参加は叶わなかったが。

 

夏にはニクラス・ジューレとセバスティアン・ルディを、1月にはサンドロ・ヴァグナーをバイエルンに引き抜かれ、ヨーロッパリーグの過密日程に対応しながらも、今季のホッフェンハイムは大陸のエリートを決める舞台へ邁進している。

 

RBライプツィヒとのアウェイ戦を5-2で制したことにより、4位のレヴァークーゼンとは2ポイント差だ。2018-19シーズンからのルール改定により、4位以上になれば自動的にグループステージへの参戦が保障される。

(訳者注:最終節でドルトムントに勝ったことで、ホッフェンハイムは3位でフィニッシュ。無事に来季CLの出場権を確保した。)

 

ホッフェンハイムよりも多くの得点を挙げているのはドルトムントバイエルンだけであり、ナーゲルスマンがチームを率いた2シーズンでより多くの勝ち点を挙げているのもこの2チームだけである。「クラブにとってはとても大きな成果ですよ。我々は巨人ではありませんから、もっと高く評価されるべきです。」

 

「1日の終わりに、楽しいフットボールをして3ポイント取れたことをお祝いできるのも、全て選手とコーチングスタッフの勇気があってこそです。」

 

ナーゲルスマンはホッフェンハイムの進歩だけに執着するのではなく、将来のフットボール界を担う世代に出来るだけ多くの機会が与えられるべきだと唱える存在でもある。彼はコモンゴールに参加した最初のヘッドコーチだ。この運動は、フアン・マタとストリート・フットボール・ワールドによって設立され、フットボールという競技を通じて社会を良くしていこうという目的を持つ。

 

「自分が晴れやかな世界で生きていることは分かっています。」マンハイムシュツットガルトのフリーで使えるフットボール場を支援しているナーゲルスマンは語る。

 

「私はしっかり稼げる職を得ていますが、世界中どこでも、ドイツであっても、貧困に苦しみ助けを求める人がたくさんいることを知っています。コモンゴールに参加した理由は、フットボールには大いなる変革を起こす可能性があるからです。コーチであっても選手であっても、こういったチャリティと繋がることは、多くの気付きを起こし、他の人にも参加しようという気持ちを促せるのです。」

 

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[コモンゴールはフアン・マタが主導して始まったフットボールを通じた社会貢献活動を行う団体。ナーゲルスマンの他にはジョルジオ・キエッリーニやアレックス・モーガン香川真司などが参加している。]

 

フットボールを通じて子供達により良い未来を提供しようという目的を持った地元の組織もサポートしています。(子供達を)サポートすることは非常に大切なことです。だって将来を担うのは彼らなのですから。私が子供の頃は当たり前だった、小さいころからスポーツクラブに通うという文化は無くなりつつあります。我々にはそれを変えるだけのパワーがあり、それを活用しなければいけません。」

 

自身の将来についてナーゲルスマンはよく考えているようだ。バイエルンドルトムントアーセナルなどが彼の立身出世を追いかけ、動向を探っていることには驚かない。しかし、解除条項が来夏から発効する契約を2021年まで残す一児の父は、移籍することを急いでいない。

 

「私のキャリアにおける次のステップはスペシャルなものである必要があります。なぜなら、私はここでとても気分よく働けているからです。この点については強調しておきたいですね。これまでもたくさん言ってきましたが、プライベートな時間でも同じことを感じています。働くことを常に楽しんでいますよ。」ナーゲルスマンは語る。

 

コーチングスタッフの間では素晴らしい雰囲気があります。私達はみんなとても若いですが、みんな仕事に集中していますし互いにジョークを飛ばし合うこともありますね。チームには素晴らしいキャラクターがあって、選手と裏方のスタッフとの間にも固い絆、友情のようなものがあります。」

 

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「私はクラブに恩義を感じていますし、逆もしかりでしょう。だからこそ、とても良い感じで機能しているのだと思います。我々は何とかしてホッフェンハイムというクラブをドイツの地図に載せたい。それだけでなくヨーロッパで存在感を示したい。それが出来たらとてもナイスなことですよね。」

 

「全ての選手、コーチは自身の将来を考えるものです。私が次のステップに進むときも将来的にはあるでしょう。ただし、それが起きるのは適切なタイミングが来たときです。それが起きなかったとしたら、私は今までと変わらずハッピーな気分でここに出勤し、ピッチへ出て行ってるでしょうね。監督をやってみたいと思うクラブ、興味の持てるクラブが現れたときには、もしかしたら次のステップに進むかもしれません。でも、私は2010年からここホッフェンハイムのために働いてきました。とても幸せですよ。」

【前編】ユリアン・ナーゲルスマン インタビュー(JOE)

15/16シーズンの終盤戦、残留争いに苦しむホッフェンハイムの指揮官に就任して以来、奇跡の1部残留、トップ4フィニッシュ、CL出場権獲得など数々の驚きを世界に発信してきたユリアン・ナーゲルスマン監督。経歴、そして指導哲学が語られたインタビュー記事がJOEというメディアに掲載されていたので訳しました。元記事はこちら


 

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[当時28歳でホッフェンハイムの監督に就任したユリアン・ナーゲルスマン。今や欧州で最も注目されている監督の一人である。]

 

あのときの苦しみは今でもチクチクと、ユリアン・ナーゲルスマンの喉を込み上げてくる。20歳の彼が経験した激動の半年ほどの期間を振り返る言葉も途切れがちになる。

 

十字靭帯の損傷に苦しんだ彼は、想定より早く現役生活を終える決断を下すのに数週間を要した。そして、さらに追い打ちをかけるように、彼の父親であるエルウィン氏も短い闘病生活の末にこの世を去ってしまった。

 

「プロの選手になるという大きな夢が破れてしまったことで間違いなく傷つきましたね。」3歳の頃に初めてスパイクを履いて地元チームに加わった現在ホッフェンハイムを率いるナーゲルスマンはJOEの取材に答えた。「若い頃からやってきたことを無駄にした、全てが無意味になったと感じていました。とても酷い気分でしたね。最初に競技生活を辞めるという決断を下させられました。そして、もっとキツいことに、父親の死がやって来たんです。このことは私の家族を取り巻くものを大きく変えました。」

 

「とても仲が良くてハッピーな家族でした。兄と姉がいます。休みの日にはみんなでよく遊びに出かけていました。すごく良い感じで過ごしていたのに、突然、父が亡くなったんです。僕の人生にとってはとても大きな傷です。」

 

ナーゲルスマンは15歳のときにバイエルン州に転居し、1860ミュンヘンのユースチームにディフェンダーとして加わった。当時、アウクスブルクと契約をしていた彼はすぐにランツベルク・アム・レヒ郡にある実家に帰った。兄と姉は遠い土地で暮らしていたこともあり、彼は父が逝去した後のあれこれをしようと考えていた。

 

「こういうことをやるのは自分の務めだと思っていました。人が死んだ後で発生すること、例えば家を売りに出したり、保険について対処したり、あとは車とか、そういうものを片付けるつもりでいました。」

 

「前までだったら考えもしなかったこと全てをちゃんとやらないといけませんでした。そういうものがどういう意味を持つのかを理解するようになりましたね。兄と姉は実家から離れた場所に住んでいて仕事もしていましたから、大半のことは自分が対応しました。こういった経験のおかげで、折り合いを付けられるようになりましたね。」

 

「父はいつも幸せそうな人でしたし、私達がポジティブで居続けること、成功を目指すことを望む人でした。私はそういう状況の中で何とかして落ち着こうとしていましたが、特に何かが変わることはありませんでした。」

 

「後から振り返れば、こういった経験の全てが人として成長・成熟させてくれましたね。同世代の人にとってはノーマルとは言えないことをやっていたかもしれません。」

 

ナーゲルスマンがブンデスリーガ最年少監督になり、最も望まれる監督としてのマインドを持つ者になった背後にはこのような暗い日々がある。身を砕くような多くの悲劇は元センターバックに様々な視点を与え、必要不可欠な成熟さをもたらした。

 

「間違いなく人生でもっとも悲しい瞬間でした。」ナーゲルスマンはまだ56歳だった“geliebter papa”(最愛のパパ)との別れを振り返ってくれた。「もっと別の方法がよかったのは明らかですが、結局は責任を背負うことによって人として、後に指導者として成長することが出来ました。」

 

「人生においてフットボールよりも大切なものはたくさんあります。家族もそうです。このことが目を開かせてくれました。他の人には下せないであろう決断を下す際の助けになります。そして、指導者というのはコンスタントに決断と向き合う存在なのです。」

 

「この仕事をしていると、本当に多くのプレッシャーを経験しますし、感じます。でも、普段の暮らしにおいて、もっと重大なことはたくさんあります。私はフットボール、そしてコーチとしての仕事に多大な情熱を注いでいますが、これが私の全てではありません。確かに愛していますが、生き死にの話ではないのです。」

 

ホッフェンハイムの練習場であるディートマー・ホップ・スポーツパークにはイノヴェーションが詰まっているが、ナーゲルスマンの特徴と彼がもたらした影響の存在は明らかだ。ボールタッチやコントロールについて計測できるフットボーナウトから、メインピッチのハーフウェイライン付近に備え付けられ、4台のカメラからリアルタイムで分析映像が送られてくる巨大なビジョンなどがあり、この業界の最先端を走っている。

 

デティールにこだわる姿勢と底なしの戦術知識をないまぜにした結果、ナーゲルスマンはよく“ラップトップ監督”と揶揄される。数字やフォーメーションが全てだと思っていると誤解されるのだ。しかし、実際の彼は真反対の人間である。「指導者として成功したいのなら、戦術的なアレコレよりも選手の背後にいる人々に気を配り、共感することこそが重要です。私はそう信じています。」ナーゲルスマンは語る。

 

「もしも戦術的に限られた知識しか持っていないのなら、まだ優れた指導者になれる可能性はあります。反対に、戦術的に素晴らしい資質を備えていても、マン・マネジメントに問題を抱えているのなら、指導者として成功することは絶対に不可能です。私は選手達に明確な戦術的なプランを授けることを重視しています。実際の試合において彼らの助けになるようなものです。しかし、彼らとの間に結んだ関係性は私にとって非常に、非常に重要なものなんです。」

 

「この場所(練習場)に来るのを毎日楽しんでいます。ここで働くすべての人、中でも選手達と共に作り上げてきた雰囲気は、成功に向かって挑戦する上で基礎となるものです。仕事を楽しみ、快適さを感じながら働ければ、嫌々やっているときよりも多く学び、能率的になれます。」

 

「私はいつも笑顔でいることも、パーソナルなことを話題にするのも好きなコーチです。自分をネタにジョークを言うこともあります。そんなにシリアスな男じゃないんです。選手達が何か問題を抱えていて、ハッピーじゃない状態は好きではありません。選手が戦術的なプランをピッチ上に落とし込めるかどうかということよりも、そういうことを考える方が多いですね。」

 

ナーゲルスマンがメディア部門の長であるホルガー・クィームやスポーツダイレクターのアレクサンダー・ローゼンと話し合っているところを見れば、ホッフェンハイムに暖かい環境があることは容易に分かる。

 

ナーゲルスマンが持つ、戦術的な理論とパーソナルな触れ合いについての才覚は、現代フットボールにおいて失われてしまったものである。

 

選手になるという夢が絶たれた後、彼は「4から6週間くらい、フットボールに関わるもの全てが嫌になった」時期を過ごした。何か全く別のことをやりたいと思った彼は経営学を勉強し、BMWで働くことになるのだが、そこで新しい道と出会う。トーマス・トゥヘルだ。来季からパリ・サンジェルマンの監督を務める男がナーゲルスマンの進む道を変えてしまったのだ。

 

当時、アウクスブルクセカンドチームを指揮していた14歳年上の戦術家もまた、深刻な膝の怪我を負って選手生命を断たれていた。

 

「経済に興味があったので、経営学を勉強することにしたんです。」ナーゲルスマンが当時を振り返る。「中間試験をパスしていて、既にBMWから販売の仕事をもらっていました。学費を稼ぐためにアウクスブルクⅡのスカウトとしてトゥヘルの下で働いていたんですが、そのときは自分がコーチになりたいだなんて全く思っていませんでした。後からトゥヘルに指導者の道に挑戦した方がいいと言われ、1860ミュンヘンから17歳以下のチームのアシスタントコーチとしてのオファーを貰ったので、トライすることに決めました。2008年のことです。」

 

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[アウクスブルクの下部組織で働いていた際にナーゲルスマン(写真左)を指導者の道へ導いたトーマス・トゥヘル(右)。数年後にはブンデス1部の舞台で師弟対決が実現。]

 

「それから数週間後、自分の中で巨大な情熱と炎が燃え上がっていることを感じました。ピッチに戻れたことが本当に楽しかったんです。今度の場合は、今までとは違った側面からですけどね。ただ、(選手時代に)怪我のせいでベンチにいることが多かった私は、既にこういう視点から多くの試合を見てきました。でも、指導者になるという目的を持って分析していたことは全くありませんでした。」

 

1860ミュンヘンでこういったことを経験する機会を持ったとき、私はすぐに指導者という仕事は私のためにあると感じました。だから、私はスポーツ科学の勉強をすることを決断しました。メディカルな部門で何が行われるのかなどの知識を、バックグラウンドとして持つためです。」

 

「怪我の話をするときや回復プロセスを理解する際の助けになります。学び始めた別の理由として、指導者キャリアは保障の無いものですから、別の方法で稼ぐオプションを持つ必要がありました。最終的には、全てのことが当初のプランよりもかなり上手く行きましたけどね。」

 

ナーゲルスマンと共に働いていた人や彼を遠目に見ていた人達は、彼の将来をすぐに察知した。成長した彼はホッフェンハイムのU17チームでアシスタントコーチを務め、後に監督となった。フランク・クラマーが暫定監督を務めた2012-13シーズンには、裏方として彼を支える仕事もしていた。

 

その翌シーズンにナーゲルスマンは、U19チームの監督としてチームをブンデスリーガ王者に導いたのだが、そこでホッフェンハイムはマスタープランを打ち出した。それは、当時スポーツ科学の学士を取得したばかりのナーゲルスマンを2016-17シーズンからファーストチームの監督に据えるというものだった。

 

「最初に契約合意したのは2015年の11月のことでした。翌シーズンの始まる夏からチームを任せるというものでしたね。」同じ時期にバイエルン・ミュンヘンも彼をU23チームの監督として迎え入れようとして、ペップ・グアルディオラとの面会という魅力的な機会を用意したが、結果は失敗に終わった。「予定が変わったのは、(当時ホッフェンハイムを率いていた)フーブ・ステフェンスが心臓に問題を抱えてしまったときです。自分が当初の予定よりも早く監督になる必要が生じたのです。」

 

 

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