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【前編】ユリアン・ナーゲルスマン インタビュー(JOE)

15/16シーズンの終盤戦、残留争いに苦しむホッフェンハイムの指揮官に就任して以来、奇跡の1部残留、トップ4フィニッシュ、CL出場権獲得など数々の驚きを世界に発信してきたユリアン・ナーゲルスマン監督。経歴、そして指導哲学が語られたインタビュー記事がJOEというメディアに掲載されていたので訳しました。元記事はこちら


 

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[当時28歳でホッフェンハイムの監督に就任したユリアン・ナーゲルスマン。今や欧州で最も注目されている監督の一人である。]

 

あのときの苦しみは今でもチクチクと、ユリアン・ナーゲルスマンの喉を込み上げてくる。20歳の彼が経験した激動の半年ほどの期間を振り返る言葉も途切れがちになる。

 

十字靭帯の損傷に苦しんだ彼は、想定より早く現役生活を終える決断を下すのに数週間を要した。そして、さらに追い打ちをかけるように、彼の父親であるエルウィン氏も短い闘病生活の末にこの世を去ってしまった。

 

「プロの選手になるという大きな夢が破れてしまったことで間違いなく傷つきましたね。」3歳の頃に初めてスパイクを履いて地元チームに加わった現在ホッフェンハイムを率いるナーゲルスマンはJOEの取材に答えた。「若い頃からやってきたことを無駄にした、全てが無意味になったと感じていました。とても酷い気分でしたね。最初に競技生活を辞めるという決断を下させられました。そして、もっとキツいことに、父親の死がやって来たんです。このことは私の家族を取り巻くものを大きく変えました。」

 

「とても仲が良くてハッピーな家族でした。兄と姉がいます。休みの日にはみんなでよく遊びに出かけていました。すごく良い感じで過ごしていたのに、突然、父が亡くなったんです。僕の人生にとってはとても大きな傷です。」

 

ナーゲルスマンは15歳のときにバイエルン州に転居し、1860ミュンヘンのユースチームにディフェンダーとして加わった。当時、アウクスブルクと契約をしていた彼はすぐにランツベルク・アム・レヒ郡にある実家に帰った。兄と姉は遠い土地で暮らしていたこともあり、彼は父が逝去した後のあれこれをしようと考えていた。

 

「こういうことをやるのは自分の務めだと思っていました。人が死んだ後で発生すること、例えば家を売りに出したり、保険について対処したり、あとは車とか、そういうものを片付けるつもりでいました。」

 

「前までだったら考えもしなかったこと全てをちゃんとやらないといけませんでした。そういうものがどういう意味を持つのかを理解するようになりましたね。兄と姉は実家から離れた場所に住んでいて仕事もしていましたから、大半のことは自分が対応しました。こういった経験のおかげで、折り合いを付けられるようになりましたね。」

 

「父はいつも幸せそうな人でしたし、私達がポジティブで居続けること、成功を目指すことを望む人でした。私はそういう状況の中で何とかして落ち着こうとしていましたが、特に何かが変わることはありませんでした。」

 

「後から振り返れば、こういった経験の全てが人として成長・成熟させてくれましたね。同世代の人にとってはノーマルとは言えないことをやっていたかもしれません。」

 

ナーゲルスマンがブンデスリーガ最年少監督になり、最も望まれる監督としてのマインドを持つ者になった背後にはこのような暗い日々がある。身を砕くような多くの悲劇は元センターバックに様々な視点を与え、必要不可欠な成熟さをもたらした。

 

「間違いなく人生でもっとも悲しい瞬間でした。」ナーゲルスマンはまだ56歳だった“geliebter papa”(最愛のパパ)との別れを振り返ってくれた。「もっと別の方法がよかったのは明らかですが、結局は責任を背負うことによって人として、後に指導者として成長することが出来ました。」

 

「人生においてフットボールよりも大切なものはたくさんあります。家族もそうです。このことが目を開かせてくれました。他の人には下せないであろう決断を下す際の助けになります。そして、指導者というのはコンスタントに決断と向き合う存在なのです。」

 

「この仕事をしていると、本当に多くのプレッシャーを経験しますし、感じます。でも、普段の暮らしにおいて、もっと重大なことはたくさんあります。私はフットボール、そしてコーチとしての仕事に多大な情熱を注いでいますが、これが私の全てではありません。確かに愛していますが、生き死にの話ではないのです。」

 

ホッフェンハイムの練習場であるディートマー・ホップ・スポーツパークにはイノヴェーションが詰まっているが、ナーゲルスマンの特徴と彼がもたらした影響の存在は明らかだ。ボールタッチやコントロールについて計測できるフットボーナウトから、メインピッチのハーフウェイライン付近に備え付けられ、4台のカメラからリアルタイムで分析映像が送られてくる巨大なビジョンなどがあり、この業界の最先端を走っている。

 

デティールにこだわる姿勢と底なしの戦術知識をないまぜにした結果、ナーゲルスマンはよく“ラップトップ監督”と揶揄される。数字やフォーメーションが全てだと思っていると誤解されるのだ。しかし、実際の彼は真反対の人間である。「指導者として成功したいのなら、戦術的なアレコレよりも選手の背後にいる人々に気を配り、共感することこそが重要です。私はそう信じています。」ナーゲルスマンは語る。

 

「もしも戦術的に限られた知識しか持っていないのなら、まだ優れた指導者になれる可能性はあります。反対に、戦術的に素晴らしい資質を備えていても、マン・マネジメントに問題を抱えているのなら、指導者として成功することは絶対に不可能です。私は選手達に明確な戦術的なプランを授けることを重視しています。実際の試合において彼らの助けになるようなものです。しかし、彼らとの間に結んだ関係性は私にとって非常に、非常に重要なものなんです。」

 

「この場所(練習場)に来るのを毎日楽しんでいます。ここで働くすべての人、中でも選手達と共に作り上げてきた雰囲気は、成功に向かって挑戦する上で基礎となるものです。仕事を楽しみ、快適さを感じながら働ければ、嫌々やっているときよりも多く学び、能率的になれます。」

 

「私はいつも笑顔でいることも、パーソナルなことを話題にするのも好きなコーチです。自分をネタにジョークを言うこともあります。そんなにシリアスな男じゃないんです。選手達が何か問題を抱えていて、ハッピーじゃない状態は好きではありません。選手が戦術的なプランをピッチ上に落とし込めるかどうかということよりも、そういうことを考える方が多いですね。」

 

ナーゲルスマンがメディア部門の長であるホルガー・クィームやスポーツダイレクターのアレクサンダー・ローゼンと話し合っているところを見れば、ホッフェンハイムに暖かい環境があることは容易に分かる。

 

ナーゲルスマンが持つ、戦術的な理論とパーソナルな触れ合いについての才覚は、現代フットボールにおいて失われてしまったものである。

 

選手になるという夢が絶たれた後、彼は「4から6週間くらい、フットボールに関わるもの全てが嫌になった」時期を過ごした。何か全く別のことをやりたいと思った彼は経営学を勉強し、BMWで働くことになるのだが、そこで新しい道と出会う。トーマス・トゥヘルだ。来季からパリ・サンジェルマンの監督を務める男がナーゲルスマンの進む道を変えてしまったのだ。

 

当時、アウクスブルクセカンドチームを指揮していた14歳年上の戦術家もまた、深刻な膝の怪我を負って選手生命を断たれていた。

 

「経済に興味があったので、経営学を勉強することにしたんです。」ナーゲルスマンが当時を振り返る。「中間試験をパスしていて、既にBMWから販売の仕事をもらっていました。学費を稼ぐためにアウクスブルクⅡのスカウトとしてトゥヘルの下で働いていたんですが、そのときは自分がコーチになりたいだなんて全く思っていませんでした。後からトゥヘルに指導者の道に挑戦した方がいいと言われ、1860ミュンヘンから17歳以下のチームのアシスタントコーチとしてのオファーを貰ったので、トライすることに決めました。2008年のことです。」

 

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[アウクスブルクの下部組織で働いていた際にナーゲルスマン(写真左)を指導者の道へ導いたトーマス・トゥヘル(右)。数年後にはブンデス1部の舞台で師弟対決が実現。]

 

「それから数週間後、自分の中で巨大な情熱と炎が燃え上がっていることを感じました。ピッチに戻れたことが本当に楽しかったんです。今度の場合は、今までとは違った側面からですけどね。ただ、(選手時代に)怪我のせいでベンチにいることが多かった私は、既にこういう視点から多くの試合を見てきました。でも、指導者になるという目的を持って分析していたことは全くありませんでした。」

 

1860ミュンヘンでこういったことを経験する機会を持ったとき、私はすぐに指導者という仕事は私のためにあると感じました。だから、私はスポーツ科学の勉強をすることを決断しました。メディカルな部門で何が行われるのかなどの知識を、バックグラウンドとして持つためです。」

 

「怪我の話をするときや回復プロセスを理解する際の助けになります。学び始めた別の理由として、指導者キャリアは保障の無いものですから、別の方法で稼ぐオプションを持つ必要がありました。最終的には、全てのことが当初のプランよりもかなり上手く行きましたけどね。」

 

ナーゲルスマンと共に働いていた人や彼を遠目に見ていた人達は、彼の将来をすぐに察知した。成長した彼はホッフェンハイムのU17チームでアシスタントコーチを務め、後に監督となった。フランク・クラマーが暫定監督を務めた2012-13シーズンには、裏方として彼を支える仕事もしていた。

 

その翌シーズンにナーゲルスマンは、U19チームの監督としてチームをブンデスリーガ王者に導いたのだが、そこでホッフェンハイムはマスタープランを打ち出した。それは、当時スポーツ科学の学士を取得したばかりのナーゲルスマンを2016-17シーズンからファーストチームの監督に据えるというものだった。

 

「最初に契約合意したのは2015年の11月のことでした。翌シーズンの始まる夏からチームを任せるというものでしたね。」同じ時期にバイエルン・ミュンヘンも彼をU23チームの監督として迎え入れようとして、ペップ・グアルディオラとの面会という魅力的な機会を用意したが、結果は失敗に終わった。「予定が変わったのは、(当時ホッフェンハイムを率いていた)フーブ・ステフェンスが心臓に問題を抱えてしまったときです。自分が当初の予定よりも早く監督になる必要が生じたのです。」

 

 

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